Mag-log in伏見部長から指定されたのは、会社から少し離れた、古い喫茶店だった。
かつて、あの会社にいた頃、何度か打ち合わせで使った場所だった。
当時と変わらない古びた木の扉、色褪せたメニュー表。懐かしさよりも先に、胃の底が重くなるような感覚があった。
会社帰りに何度も通った道を、今は違う立場で歩いている。同じ景色のはずなのに、当時とはまるで違って見えた。
葵にだけ、簡単なメッセージを送った。
『これから、伏見部長に会ってくる。終わったら連絡する』
すぐに既読がつき、返信が来た。
『無理しないでね。何かあったら、すぐ電話して』
その言葉に、少しだけ気持ちが軽くなった。
一人で行くと決めたのは、これは自分自身で決着をつけるべきことだと思ったからだった。
◇
喫茶店に向かう道すがら、何度も足が止まりそうになった。
以前、元上司と鉢合わせそうになったとき、ビルの柱の陰に隠れて息を殺していた自分を思い出す。
あの頃は、声を
伏見部長から指定されたのは、会社から少し離れた、古い喫茶店だった。かつて、あの会社にいた頃、何度か打ち合わせで使った場所だった。当時と変わらない古びた木の扉、色褪せたメニュー表。懐かしさよりも先に、胃の底が重くなるような感覚があった。会社帰りに何度も通った道を、今は違う立場で歩いている。同じ景色のはずなのに、当時とはまるで違って見えた。葵にだけ、簡単なメッセージを送った。『これから、伏見部長に会ってくる。終わったら連絡する』すぐに既読がつき、返信が来た。『無理しないでね。何かあったら、すぐ電話して』その言葉に、少しだけ気持ちが軽くなった。一人で行くと決めたのは、これは自分自身で決着をつけるべきことだと思ったからだった。◇喫茶店に向かう道すがら、何度も足が止まりそうになった。以前、元上司と鉢合わせそうになったとき、ビルの柱の陰に隠れて息を殺していた自分を思い出す。あの頃は、声を聞いただけで体が竦んだ。けれど、今は違う。足取りは重いけれど、止まってはいない。それだけでも、随分と遠くまで来たのだと思えた。店の扉を開けると、奥の席に伏見部長がいた。五年前と比べて、随分と痩せていた。かつては自信に満ちていたその表情は、今はどこかやつれ、目の下に濃い隈ができていた。仕立ての良かったはずのスーツも、心なしか肩の辺りが余って見えた。業界団体からの正式な処分──失脚という現実が、この数週間でこの人からすべての余裕を奪い去ったのだと、一目でわかった。「……座れよ」促されるまま、向かいの席に腰を下ろした。「ご注文は」店員が水を置きながら尋ねてきたが、コーヒーを一杯頼んだだけで、それ以上は答えられなかった。運ばれてきても、手をつける気になれなかった。しばらく、重い沈黙が流れた。膝の上で重ねた手に、無意識に力がこもっていた。かつて、この人の前では、いつも言葉を選び、顔色を窺っていた。
休憩時間に入り、会場のロビーに人が流れ出した頃、近くにいた女性二人が、小さく囁くのが聞こえた。「澄川家の会社、黒瀬グループとの契約、解除されたらしいですよ」「え、本当に?」「取引上の不備が、色々見つかったとか」囁きだったはずのその声が、なぜかロビーの隅々にまで届いているような気がした。人々の視線が、少しずつ奈緒さんから離れていくのが、はっきりとわかった。これまで、業界の集まりでいつも中心にいた人が、今は誰からも話しかけられることなく、ロビーの端でぽつんと取り残されていた。かつて、私に『その速度を、少し遅らせることができます』と余裕たっぷりに告げたあの人が、今は自分自身の立場を守る言葉すら見つけられずにいた。◇しばらくの沈黙の後、奈緒さんが、荷物をまとめて出口へ向かおうとした。その背中に、私は声をかけた。「奈緒さん」彼女の足が止まった。振り返った奈緒さんの目に、驚きが浮かんでいた。「もう、私たちに構わないでください」声は震えなかった。かつて、この人の一言に怯えていた自分は、もうどこにもいなかった。奈緒さんが私を見て、それから柊さんを見た。何かを言おうとして、言葉にならないようだった。「……あなたたち、本当に厄介ね」低く、絞り出すような声だった。これまでのような企みも、余裕も感じられなかった。ただ、疲れ果てたような響きだけがあった。それだけ言って、奈緒さんは逃げるように会場を後にした。ヒールの音が、来た時よりもずっと速く、乱れていた。◇その背中を、私は静かに見送った。同情はしなかった。ただ、心の中で静かに思った。奈緒さんは、いつも計算で人を動かそうとしていた。柊さんの過去の情に付け込み、姉の真帆に情報を求め、私の弱みを盾にして。すべてが、損得と計算の上に成り立っていた。でも、その計算だけの生き方の果てに残ったのは、誰も味方をしてくれない、孤独な背中だった。
業界向けのカンファレンスが開かれたのは、あの報告書を見せられてから、数日後のことだった。会場は、都心のカンファレンスホールだった。秋の気配が濃くなり始めた午後、広告・マーケティング業界の関係者が集まる、年に一度のシンポジウムだった。柊さんは、黒瀬グループとして後援に名を連ねており、パネルディスカッションの登壇者の一人でもあった。私は、案件の担当プランナーとして、関係者席に座っていた。取引先の役員、業界紙の記者、関連会社の担当者たち。誰もが、それとなく私たちの方に視線を向けてくることに、以前ほどの緊張はもう感じなくなっていた。守られているという感覚ではなかった。ただ、隣に立つ人と、同じ方向を向いているという確かさがあった。半年前の自分だったら、この場所に座っていること自体が、想像もつかなかった。姉の名前を借りて、嘘をつきながら、いつ誰かに見抜かれるかと怯えていたあの頃とは、もう別人になっているような感覚があった。パネルディスカッションが進む間、私は登壇席の柊さんを見ていた。淡々と、でも的確に質問に答えていくその姿は、いつも見ている「不器用な優しさの人」とはまた別の顔だった。この人の隣に立てることを、改めて誇らしく思った。◇奈緒さんが姿を見せたのは、午後のパネルディスカッションが終わり、質疑応答の時間に入った頃だった。会場の後方の扉が開いた瞬間、私はすぐに気づいた。あの姿勢の良さ、あの隙のない歩き方を、見間違えるはずがなかった。いつも通りの、隙のない装いだった。でも、その笑みの端に、以前にはなかった硬さが滲んでいるのを、私は見逃さなかった。胸の奥で、小さな緊張が走った。何かを企んでいる、という予感が、その姿を見た瞬間から離れなかった。質疑応答の順番が回ってきた時、奈緒さんが、まっすぐに手を挙げた。マイクを受け取り、会場全体に届く声で、彼女が切り出した。「業界の信頼性について、伺いたいのですが」その前置きに、周囲がわずかにざわついた。「西園寺柚葉さんの
伏見部長の一件が終わった数日後、柊さんから一件のメッセージが届いた。『橋本さんの連絡先が分かった。会うかどうかは、あなたが決めていい』指が、しばらく画面の上で止まった。五年間、心のどこかにずっと引っかかっていた名前だった。自分の内部通報のせいで、無関係なまま巻き込まれ、会社を辞めることになった同僚。あの頃、橋本さんがどんな顔で会社を去っていったのか、今でもはっきりと覚えている。何度謝ろうとしても、当時の私には、その勇気がなかった。謝りたい気持ちと、今さら会う資格があるのかという迷いが、同時に胸の中でせめぎ合った。自分の過去を認められ、姉とも対等に向き合えた今なら、もう二度と自分の過去から逃げずにいられる気がした。伏見部長の件が解決し、本当の意味で前を向いた今だからこそ、会わなければいけない。震える指で、まっすぐに返信を打った。『会いたい、です。連絡先を教えていただけますか』◇指定されたのは、駅前の小さなカフェだった。先に着いて待っていると、見覚えのある女性が、少し緊張した面持ちで入ってきた。橋本さんだった。当時はいつも髪を低めに縛り、どこかくたびれたスーツを着ていたけれど。今は柔らかく巻かれたボブヘアに、落ち着いた柔らかな色合いのブラウスを着ている。記憶の中の彼女よりも、ずっと表情が柔らかく、明るい印象になっていた。「……お久しぶりです、西園寺さん」「はい。急にすみません、時間を作ってもらって」向かい合って座ると、しばらく、どちらも言葉を探すような沈黙が流れた。先に口を開いたのは、私だった。「五年前のこと、ずっと謝りたかったんです。私のせいで、橋本さんを巻き込んでしまって……本当に、申し訳ありませんでした」深く、頭を下げた。「西園寺さん」顔を上げると、橋本さんは、思いがけず柔らかい表情をしていた。「謝らないでください。あの頃は確かに大変でしたけど、西園
姉の真帆と和解してから、数日が経った九月の第二週。季節は少しずつ秋へと向かい始めていた。朝晩の風に、夏の名残りとは違う涼しさが混じるようになっていた。『少し、時間をもらえるか』柊さんから、そんな連絡が来たのは、仕事の合間の昼休みだった。いつもと変わらない、簡潔なメッセージ。でも、なぜかその一文に、いつもより慎重な響きがある気がした。指定されたのは、会社近くのカフェだった。いつも一人で仕事の資料を広げる、馴染みのある場所。その日常の空間に、柊さんがいるという事実が、少し不思議な感覚を連れてきた。◇窓際の席で、柊さんは先に来て待っていた。テーブルの上に、薄いファイルが置かれている。その色のない表紙を見た瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。「あなたの、前職の件を調べた」前置きなく、柊さんが切り出した。「……調べた、というのは」「五年前の、あの横領事案について」心臓が、大きく跳ねた。あの日、彼の部屋で全部を打ち明けた夜のことが、頭の中に蘇った。「当時のあなたの上司──伏見部長の件だ」初めて、その名前を柊さんの口から聞いた。ずっと自分の中だけで抱えてきた、忘れたくても忘れられない名前。それが、こんな場所で、こんなふうに他人の口から出てくるとは、思ってもいなかった。「伏見部長が、今も業界内で、同じような不正を続けていたことが判明した」柊さんの声は、淡々としていた。でも、その淡々さの奥に、確かな怒りのようなものが滲んでいる気がした。「証拠を揃えて、業界団体と監査機関に正式な報告を行った。伏見は、完全に失脚した」言葉が、すぐには頭に入ってこなかった。五年間、心のどこかで恐れ続けてきた存在が、そんな形で終わりを迎えたということが、うまく実感できなかった。「五年前の匿名通報者の指摘は正しかった、という事実が──業界内に正式に周知される」その一言に、ようやく実感が追いついてきた。◇
「……あのね、お姉ちゃん」「何?」「昔、よく言ってたよね。顔のパーツは悪くないのよ、もったいない使い方してるわねって」姉が、固まった。あの頃、何度も言われた言葉だった。褒めているようで、どこか見下すような響きを含んだ言い方。「今なら、お姉ちゃんに言い返せる気がする」姉が、警戒するような目でこちらを見た。「中身のパーツは悪くないのよ。もったいない使い方してるわね」一瞬の沈黙の後、姉が言い返そうとして、止まった。それから、小さく笑った。「……生意気になったじゃない」「お姉ちゃんに似たんじゃない」姉が、私の顔をまじまじと見つめた。値踏みするような、でもさっきまでとは違う、柔らかい目だった。「……あんた、なんか顔つき変わった?」「そう、かな」「変わったわ。前より、ずっと」姉が、小さく息を吐いた。肩の力が抜けたような、そんな仕草だった。「黒瀬さんと、ちゃんと想い合ってるんだね」昨夜のことが、頭を掠めた。頬が、じんわりと熱くなるのがわかった。少しだけ照れながら、頷いた。「あたしが言えることじゃないけど……大事にしなさいよ、ちゃんと」「うん」「もう、お姉ちゃんに邪魔させないでね」その一言に、これまでの姉との時間のすべてが、詰まっている気がした。脅されたこと、利用されたこと、それでも姉妹として過ごしてきた年月のこと。すべてを引き受けた上での、不器用な詫びだった。姉はそれ以上何も言わずに、玄関へと向かった。振り返らずに、静かにドアを開けて出て行った。◇一人になった部屋で、私はしばらくドアの方を見ていた。脅されてお見合いの身代わりを引き受けたあの日から、ずっと姉は「使う側」で、私は「使われる側」だった。姉に何かを言われるたびに、言い返す言葉より先
ゆっくりと扉を開け、一歩足を踏み入れた瞬間、思わず立ち止まりそうになった。高い天井に広がる、クリスタルのシャンデリア。香ばしいコーヒーの香りと、白く気高く咲き誇る大輪の胡蝶蘭。磨き上げられた大理石の床に、自分が履いている安物のヒールの音がカツカツと不躾に響く気がして、それだけで萎縮しそうになる。場違いにもほどがある……。心の中で小さく呟き、緊張で強張りそうになる手を、そっとドレスの上の膝に置いた。ここで怯んだら、一瞬で「偽物」だと見破られてしまう。案内された席に着いた瞬間、背筋が自然と真っ直ぐに伸びた。膝を揃えて座る。手をテーブルに乗せない。視線を落としすぎないように前を向く。
「あなた、西園寺真帆さんじゃありませんよね?」その一言で、心臓が止まった。白いカップを持つ指先から、血の気が引いていく。震えそうになる手を悟られないよう、私はそっとカップをソーサーへ戻した。小さな陶器の音が、静まり返ったカフェにやけに大きく響く。どうして?どうしてバレたの?「……何のことでしょうか」かろうじて笑みを作る。けれど、目の前の彼は微笑みもしなかった。「無理に誤魔化さなくて結構です」向かいに座る男──黒瀬グループの社長である黒瀬柊は、こちらをまっすぐ見ていた。責めるでもなく、怒るでもなく。ただ静かに、"真実"だけを見
一段階低くなった姉の声が、耳の奥に刺さった。『あたしが今の彼との話をまとめるまで、黒瀬の目を逸らし続ける必要があるの。黒瀬家とうちの家、色々と込み入った事情があるのよ。あんたが勝手に終わりにして、黒瀬側から実家に何か連絡でもされたら、全部おじゃんになる。わかる?』「わかってる。でも──」『断るなら、五年前のこと、全部バラすから』返事も待たず、音が消えた。また、五年前のことで脅されてしまった。昔から、姉は私の弱いところを探すのが上手かった。私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
『先程は、お時間をいただきありがとうございました。──黒瀬柊』彼からのメッセージは、それだけだと思っていた。数秒後、同じ番号から、もう一通届いた。『次回、ご都合の良い日を教えていただければ、合わせます』画面の番号を、もう一度確かめた。間違いない、黒瀬さんからだ。お見合いの書類に載っているのは、姉の連絡先のはず。さっき、私が口頭で伝えた番号──黒瀬さんはそちらに送ってきたのか。「合わせます」という一言。感情がない、と思った。温かくもなく、冷たくもなく、ただ的確だ。







